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礼拝
友納靖史

常盤台バプテスト教会 2022.12.25 主日礼拝 「世界に告げよう、この喜びと希望」友納靖史牧師【イザヤ書 52章7~12節】(新共同訳 旧約P.1148~1149)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                     
招詞   ローマの信徒への手紙 10章9~15節  司式者
祈祷          司式者
聖書朗読  ルカによる福音書 2章10~11節 司式者
特別賛美  「人みな喜び歌い祝え」  聖歌隊
賛美   教団112番「もろびとこぞりて」1.3.5節
献金感謝                 司式者
聖書   イザヤ書 52章7~12節
特別賛美 第一礼拝:「You raise me up」村上早苗
第二礼拝:「       」井上里奈
宣教   「世界に告げよう、この喜びと希望」友納靖史牧師
祈祷
賛美   讃美歌第二編172番「世界に告げよ」
頌栄    教団106番「荒野の果てに」
祝祷
後奏
宣教概要
 嬉しい情報、ニュースを聞くと、自然と誰かにそのことを話ししたくなります。天使から救い主の誕生を告げられ、知らせてくださった通りに飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子イエスと出会った羊飼いたち。その光景すべてを見て、彼らは「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた(ルカ2:17)」のです。
 主イエスが公生涯の最初の頃、安息日にナザレの会堂で聖書朗読の役目を担うため、巻物が渡され読まれたのがイザヤ書61章1節からの箇所でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。…」(ルカ4:18-19)。ここで主イエスは「福音を告げ知らせる(イザヤ書:良い知らせを伝えさせる)」使命がご自分に託されていたことをより強く確信され、こう話されました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(ルカ4:21)」と。イエス誕生の550年程前、イザヤ書に記されたこの神の約束が果たされたことを、主イエスはその生涯を通して体現され、福音記者や弟子たち、更に続くパウロたちも、生きて働かれる主なる神の御業に感動しつつ、福音を伝える働き(宣教活動)に喜び関わっていったのです(使徒8:26-39)。
 イザヤは「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の『足』は(52:7)」と、福音宣教者の存在価値を喜び尊ぶ表現として、特に『足』に焦点を当てて賞賛します。足は確かに、人の身体全体を支え、行動力全般を現わす大切な体の部分です。この個所を引用したパウロは、イザヤの言葉に習って伝道者の「足」を強調しつつも、「実に信仰とは聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」と、福音を運び伝える人の「口」と、聞く人の「耳」を含めて、福音を運ぶ貴い働きは他にもあると語りかけます。
ここで特に注目したい箇所は、イザヤが“救い主”が人となって来られることを預言したことです。「彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、『あなたの神は王となられた』とシオンに向かって呼ばわる(52:7)」と。「神が王となる」との預言を聞いた当時の人々は戸惑ったはずです。なぜなら彼らは、ダビデ王のような「救い主」の到来を期待していましたが、神ご自身が王、まさか人間となって来られるとは受け入れ難かったからです。それはイザヤ53章で預言される“苦難の救い主”の姿も同様でした。実際の救い主は、「輝かしい風格も、好ましい容姿もなく、軽蔑され、人々に見捨てられ…」、“ユダヤ人の王”と揶揄され、茨の冠をかぶせられて十字架で刺し貫かれて死なれます。しかし三日目に死より復活され、神の栄光を表され、正に神が王、いや「王の王、主の主」(黙17:14,19:16)となられたのです。
 サウルと名乗っていた頃のパウロも、「神が王(人)となられた」お方がイエスであると受け入れられませんでしたが、復活の主イエスと出会い、信じる者へと変えられました。更に彼にとっての驚きは、「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げる(イザ52:7)」働きが、救い主や特別な者にだけ託されたのではなく、パウロ自身に、そしてイエスを主と信じるキリスト者すべてにその使命が委ねられた(マルコ16:15)と知ったことです。そこで彼は畏怖の念をもってこう呼びかけるのです。「…宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう(ローマ10:9-15)」と。
 良き知らせを伝える者の『足』は今日、賛美する人の『口』でもあり、奉仕し、祈る人の『手』でもあり、トラクトやインターネットによる伝道ツールを用いる『頭(脳)』を含め、キリストの身体なる教会(コリント一12:12-31)に連なる一人一人の信仰と使命(ミッション)を表しています。私たちに与えられた主イエスにあるこの喜びと希望を、 共に世界に告げ知らせて参りましょう。